思い立ってブログを書いてから4年も経ってしまった(前回はこちら)。
コロナのおかげ(?)で時間ができて、ふたたび調べ始める。
今まででわかったのは祖父の所属部隊(兵站部隊の所属で後方支援部隊か)まで。それをもとに
国立公文書館のアジア歴史資料センターのデジタルアーカイブで調べたり
靖國偕行文庫にて当時のビルマの日本軍の進軍ルートが分かるものの
祖父の亡くなった地点まではわからず、、。
それにしても現地で臨時召集されたのが昭和20年3月末。
終戦のわずか4ヶ月前。
ビルマ国民軍の離反、ラングーンもイギリス軍に包囲され
5月に奪還されることになる。
このような切羽詰まった状況では日本の男は皆戦うしかなかったのだろうか。
亡くなったとされるのは7月末で終戦のわずか2週間前。
なんとも、やるせない。
大勢の方が同じように亡くなった。
祖父をはじめ未だに戻れない遺骨が4万6千柱ほどあると聞く。
ビルマでの新しい資料は見つかっていないものの
生前の祖母に聞き取りをして作った個人史があることを伯父から聞き
祖父の新たなことがわかった。
一つは祖母との馴れ初め。もう一つは勤めていた会社。
馴れ初めは紹介だったようだが、祖母が結婚を決めるエピソードがあり、
それは「母親思いの親孝行息子」と新聞に載った事だそうだ。
戦時色の濃い当時、そんなエピソードで載るなんて凄い。
どんな話だったのか興味津々。
なので現在、当時の新聞を国会図書館にて調べ中。
祖母は結婚後、もちろん姑と一緒に長崎で生活した。
また、祖父は九州商船に勤めていて転勤で福岡に
さらにビルマのラングーンに転勤になったようだ。
これでラングーンに渡った理由がわかる。
祖父が転勤になった後
姑とともに祖母の実家のある島原に帰り
そこで母を生む。
結婚が昭和18年2月、母が生まれたのは9月。
おそらく半年とは無かった、短い新婚生活。
祖母は長女が生まれたことを手紙で知らせた。
その後、何度も手紙を書いたが返信はなかった。
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